法光寺について

お寺の宗旨
名称 浄土宗
宗祖 法然上人(源空)1133~1212
開宗 承安五年(1175)
本尊 阿弥陀仏(阿弥陀如来)
脇侍 観音菩薩(向かって右側)
勢至菩薩(向かって左側)
教え 阿弥陀仏の本願を信じ、南無阿弥陀仏を唱えれば必ず極楽浄土に生まれることができるという教えです。
お経 お釈迦様のお説きになった浄土三部経「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」
本山 総本山:知恩院(京都)
大本山:増上寺(東京)、 金戒光明寺(京都)、知恩寺(京都)、 清浄華院(京都)、善導寺(久留米)、 光明寺(鎌倉)、善光寺大本願(長野)

法然上人御影
(山崎辨栄上人 筆 法光寺蔵)

お寺の沿革
寺院名 手長山 二尊教院 法光寺(てながさん にそんきょういん ほうこうじ)

由 来 戦国時代、諏訪の中心として栄えた諏訪氏の居城上原城の城下町(茅野市上原)には、鎌倉五山になぞられて上原五山といわれる寺院がありました。永明寺・金剛寺・光明寺・法(報)明寺・極楽寺がこれです。
  この中、法(報)明寺と光明寺の二ヶ寺が後日合併して、現在の法光寺(諏訪市岡村)にいたっています。 「起立記」によると、謝徳山報恩寺は永禄三年(1560年)、明蓮社賀譽岌興上人(京都百萬遍知恩寺第二十六世)の開山であり、遍照山新光明寺は、然蓮社貞譽良記上人(鎌倉光明寺第十二世)の開基であり、 第八世生蓮社岌往上人がこの二ヶ寺を合併、二仏を一緒に安置し、徳照山二尊教院報光寺と称し、現在の法光寺の基礎をつくり中興開基となりました 。
  上原城が武田氏に侵攻され、天正年間に日野根織部正が高島城を築城するにおよび、文禄元年(1592年)に第九世明譽賀譽上人が、寺を手長神社の下、現在の裁判所の処に移し、寺号を手長山二尊教院法光寺と改められました(明治維新まで手長神社の別当寺となりました)。
  第十世峯譽上人の時、寛永十年(1633年)に寺堂は全焼しました。その後、檀頭小澤主膳亮正茂が、正保二年(1645年)開基となり、今の地に再建されました。
本尊と二尊仏

本尊は阿弥陀如来座像(1尺4寸)
伝 恵心僧都作

本尊は阿弥陀如来座像(1尺4寸)恵心僧都作といわれています。本尊とは別に阿弥陀如来立像二体があり、光背(舟形光)に"承応三年(1654年)8月15日・仏師尾州宮之善十郎 願主法光寺十代"の銘を読めます。
  寛永十年(1633年)、寺堂消失後再興に尽くした、小澤主膳亮正茂の寄進、また黒こげた阿弥陀如来二体の頭部のみが秘仏「二尊様」として本堂にあります。

二尊様(秘仏)

阿弥陀如来立像

山門と本堂

法光寺が現在地に移ったのは正保二年(1645年)10月です。
 弘化二年(1845年)桑原町から出火の大火(河内屋火事)では山門を類焼しましたが、寺堂はこの間、享保四年(1719年)に本堂、同十九年(1734年)に庫裏などの修造を重ねました。
  その後、第二十九世遊譽説山は檀頭飯田太金次氏の献身的な協力を得て、本堂・庫裏の大改修を成し遂げ、現在の基盤を築きました。
  第三十世開譽輝雄代に本堂および庫裏の屋根を入母屋づくりに改修するなど、寺院の景観とともに本堂内部の格天井の改修、百万遍大念珠などを設置しました。

山門

本堂

鐘楼と釣鐘

 かつての釣鐘は十四世天譽理源代の延宝五年(1677年)の造られたものですが、太平洋戦争で軍需供出となりました。現在の梵鐘は昭和二十六年京都三和梵鐘鋳造所で新鋳しました。
設計は京都工芸繊維大学教授 青木一郎氏で、教授は釣り鐘の音響学で学位をとり、鐘固有の音の特徴と波形の関係・鐘の組成・肉の厚さ・撞木の関連性など音響学の立場から解明し、これを新鋳造の鐘に生かしました。

  撞木が当たって、打音が2秒ほど続いて次に高音、これが遠音になる音で持続時間は10秒。そして余韻、持続時間は鐘に耳を近づけて2分半から3分が適当、 高音ばかりに気を取られると打音が悪くなるといった問題を克服しながら、諸行無常の感じが生命とも云える鐘の設計を物理学で処理して仕上げたのが、この昭和の梵鐘です。鐘楼は大正八年(1919年)の建造です。